藤原 成家(ふじわら の なりいえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の長男。官位は正三位・兵部卿。

経歴

後白河朝の保元2年(1157年)叙爵し、仁安元年(1167年)に侍従に任じられる。文治元年(1185年)に右近衛少将に任じられ、正治元年(1199年)に右近衛中将に昇任された。

建仁3年(1203年)に従三位に叙され公卿に列す。承元4年(1210年)に正三位に進み、建暦元年(1211年)には兵部卿に任ぜられる。建保2年(1214年)弟の藤原定家が参議に任ぜられると、翌建保3年(1215年)3月30日に出家。最終官位は兵部卿正三位。

承久2年(1220年)6月4日薨去。享年66。

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

  • 保元2年(1157年) 3月26日:従五位下(暲子内親王久寿2年大嘗会御給)
  • 仁安元年(1167年) 正月12日:侍従
  • 仁安3年(1169年) 日付不詳:従五位上
  • 嘉応2年(1170年) 正月18日:備後介
  • 治承元年(1177年) 正月5日:正五位下(八条院御給)
  • 文治元年(1185年) 6月10日:右近衛少将
  • 文治2年(1186年) 2月30日:近江権介
  • 文治3年(1187年) 正月5日:従四位下(府労)
  • 建久元年(1190年) 正月5日:従四位上。正月24日:止近江権介
  • 建久2年(1191年) 2月1日:正四位下
  • 建久3年(1192年) 正月27日:兼安芸介
  • 建久4年(1193年) 2月:服解(母)。6月27日:復任
  • 建久7年(1196年) 正月28日:止安芸介
  • 正治元年(1199年) 12月9日:右近衛中将
  • 正治2年(1200年) 正月22日:兼美濃権介
  • 建仁3年(1203年) 10月24日:従三位、止右近衛中将
  • 承元4年(1210年) 12月26日:正三位(春華門院御即位御給)
  • 建暦元年(1211年) 12月2日:兵部卿
  • 建保3年(1215年) 3月30日:出家(兵部卿正三位)
  • 承久2年(1220年) 6月4日:薨去

系譜

  • 父:藤原俊成
  • 母:美福門院加賀
  • 妻:大宮禅尼
    • 次男:藤原言家(? - 1239年)
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原宣家
    • 男子:藤原雅家

脚注

参考文献

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 市川久編『近衛府補任 第二』続群書類従完成会、1992年

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