ジャン=ピエール・モーリス・ジョルジュ・ベルトワーズ(Jean-Pierre Maurice Georges Beltoise, 1937年4月26日 - 2015年1月5日)は、フランス人の元レーシング・ドライバー。1965年フランスF3、1968年ヨーロッパF2チャンピオン。

マトラチームと縁が深く、スポーツカーレースおよびF1でも長年マトラを駆っていた。

略歴

元々は2輪でレースのキャリアをスタートさせたが、その後4輪に転向。

1964年、スポーツカーレース参戦時における大クラッシュで負傷。これ以後片足に障害を抱え、また右肘も曲げることが出来なくなる。しかし、翌1965年にフランスF3でチャンピオンを獲得するなど、以後も活躍を見せる。

F1

マトラ時代

1966年

1966年第6戦ドイツGPにおいて、マトラのF2マシンでF1に出走。F2マシンでの参戦の為、公式にはデビューとはならなかったが、8位で完走を果たしている。

1967年

翌1967年は、第2戦モナコGP・第10戦アメリカGP・第11戦メキシコGPの3戦にマトラのF1マシンでスポット参戦。モナコGPは予選落ちとなったが、アメリカGPでは予選を通過しF1デビュー戦を果たし7位完走。メキシコGPでも同様に7位で完走した。

1968年

1968年よりレギュラー参戦を果たし、開幕戦の南アフリカGPで6位に入り初入賞を記録。第2戦スペインGPでも5位入賞、この際に初のファステストラップ(以下:FL)を獲得している。また第5戦オランダGPでは、2位に入り初表彰台を記録、また2度目のFLを記録している。シーズン後半はリタイヤが続くが、第9戦イタリアGPでは5位入賞。12戦中4度入賞、FL2回という成績をおさめた(ランキング9位)。

1969年

この年は第5戦フランスGPで、自身の当時最高位となる2位を記録。これを含め、全11戦中7度入賞(うち表彰台3回)、FL1回の成績でランキング5位を獲得、結果的はF1における自身最高成績となった。また第3戦モナコGPで3番グリッド、第9戦カナダGPで2番グリッドにつけるなど、予選でも速さを見せるようになる。

1970年

1970年は全13戦中、2度の3位表彰台を含む6度の入賞を記録。ランキングは9位となった。

1971年

1971年は全11戦中参戦は計7戦のみとなった。それまでは、優勝こそ無いものの毎シーズンに数回表彰台にのぼる活躍を見せていたが、この年は入賞すら第2戦スペインGPでの6位1度の不本意な成績に終わり、ランキングは22位。シーズン終了後、BRMに移籍する。

BRM時代

1972年

BRMの初年度となった1972年は、全12戦中開幕戦アルゼンチンGPを欠場したため、11レースへの参戦となった。豪雨の第4戦モナコGPでは、予選4位からスタートでトップを奪取し、そのまま終始トップを走り続け初優勝。FLもマークしており、2位のジャッキー・イクスに28秒差をつけての完全勝利だった。しかしシーズンを通しては、モナコGP以外は表彰台はおろか、入賞すら無しという結果に終わる(ランキング11位)。

1973年

1973年も不振が続き、全15戦中8回のリタイヤを喫した。そんな中でも4位1回・5位3回と計4度の入賞を記録するが、表彰台にあがることは出来なかった(ランキング10位)。

1974年

1974年は、それまでチームのスポンサーだったマールボロが離れてしまい、資金難の中でのレースとなるが、開幕戦アルゼンチンGPで5位に入る。第3戦南アフリカGPでは2位に入り、久々に表彰台にのぼった。また第5戦ベルギーGPでも5位に入るが、以降は入賞を記録出来なかった。最終戦のアメリカGPでは、デビュー年以来となる予選落ちも喫し、このGPをもってF1からは去っていった(ランキング13位)。

リジェのテストドライバー

1975年シーズンオフ、翌年より参戦を開始するリジェのテストを担当。レギュラードライバーとしての参戦も予定されていたが、共にテストを担当していたジャック・ラフィットと交代となり、F1復帰はかなわなかった。

F1後

元々スポーツカーレースで名を馳せており、F1後も、スポーツカーレースでは活躍。1980年代にはプジョー・505GTIを駆ってフランスのツーリングカー選手権で多くの勝利を挙げた。また、ラリーに参戦したこともある。

2015年1月5日、脳卒中によりセネガル・ダカールの別荘で死去。77歳没。

逸話

ワイン愛好家であり、特にシャトー・ベル・アシーズ・クォーを好んでいた。

物議を醸したレース

1971年ブエノスアイレス1000kmレース

1971年のブエノスアイレス1000kmレースにおいては、「無謀な行為によって死亡事故を招いた」として、アルゼンチン警察に逮捕された(その後保釈金を払った為、すぐに解放され帰国している)。事故に至るまでの経緯は以下の通り。

レース序盤、ベルトワーズの駆っていたマトラのマシンが、序盤にエンジントラブルを起こしストップ。この際、止まった場所が最終コーナーでありピットから近かった為、修復の為に運ぼうと、降車後にコース上でマシンを押していった。しかし、危険と避難を促されその場を離れかけた瞬間、バトルで前方の視界を遮られていたイグナツィオ・ギュンティのフェラーリ・312PBが、減速する間もなくコースに残されていたマトラに激突。フェラーリは大破し炎上、マシンに取り残されたギュンティはそのまま焼死してしまった。

この件は通常のレース中のアクシデントとしては処理されず、コース上でマシンを押し進める行為が招いた人災とみなされた為、逮捕という事態となった。ただしこのことに加え、「イエローフラッグを振っていなかった」「マシン消火中もレースを続行し、後続車に回避指示を送ることもしない」等、主催者側に怠慢と取られかねない要素があったことも指摘されている。

戦績

ロードレース世界選手権

(key) (イタリック体はファステスト・ラップのレースを示している)

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権

  • 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
  •  : グレーデッド・ドライバーに指定されているため、選手権のポイント対象外となる。

F1世界選手権

  • 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
  • * 印は1969年ドイツグランプリにおいて、5位から10位までのドライバーがF2の車両でフィニッシュしたため(規定によりF2の車両は入賞圏内でフィニッシュしてもポイントは与えられない。)、12位のベルトワーズが6位にあたる1ポイントを獲得した。

ル・マン24時間レース

出典

関連項目

  • フランソワ・セベール:妻の弟にあたる。セベールはベルトワーズに会ったのをきっかけにレーシングに興味を持ち始めた。
  • モータースポーツ
  • ドライバー一覧
  • F1ドライバーの一覧

R.I.P. JeanPierre Beltoise Motor Press

1972 JEANPIERRE BELTOISE Grand Prix Magazine

ジャン・ピエール・ポルナレフ CHARACTER TVアニメ2nd Season「ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース

駿河屋 ジャン・ピエール・ポルナレフ A4クリアファイル 「ジョジョの奇妙な冒険 in JWORLD TOKYO」(クリアファイル)

駿河屋 3.ジャン・ピエール・ポルナレフ 「ジョジョの奇妙な冒険 The Animation カプセル缶バッジコレクション」(バッジ・ピンズ)